密蔵院 歴史案内

 

望海浜公園の北に巨大な地蔵が見えます。そこに密蔵院があります。

この密蔵院は、平安時代に観賢僧正によって作られ、室町時代頃には

8つの末寺をもち栄華を極めたと伝えられています。

江戸時代、明石藩主の信仰も厚く、仏像が寄贈されるなど、明治のはじめまで、

大いに栄えたといわれています。 しかし、昭和20年7月の明石大空襲ですべて

燃えてしまいました。

戦後の昭和27年に、地下15メートルというお地蔵を建立したといわれます。

毎年8月23日、24日の地蔵盆の夜には多くの人でにぎわいます。

   境内の東南すみにある小さなお堂の中に、油掛地蔵がまつられています。

訪れた人々は、お地蔵さんに油を掛け、開運、健康、安産を祈ります。

水をかける水掛地蔵というのはよくあるが、このように、油を掛けるのは

珍しいそうです。

 

                        

 

 

 

 

 

                                                                                                    密蔵院には、明石の民謡「茶碗屋の娘」の墓碑があります。   

明石樽屋町の娘にまつわる悲しいお話しを紹介しましょう。

 昔、樽屋町に、てびろく瀬戸物を商っている茶碗屋という店がありました。
この家に女の子が生まれました。 お糸となずけられました。やがて、お糸は、
15,6の娘盛りを迎え、その美しさは、だれも、知らぬものもなく、
歌まで作れられたそうです。やがて婚約がめでたくまとまりました。

そのころ、明石のお殿様が、新しくなりました。 お糸は、明石のお殿様に、
気に入られ、お糸を御殿女中として差し出すように命令してきました。 

 しかし、お糸には、祝言の日取も決まった許嫁がいるので、城にあがるわけには、
いきません。お糸はなやんだ末、明石川に、身を投げて死んでしまいました。
その後、お糸の嘆きのせいでしょうか、お殿様も狂い死にし、人々は、お糸を哀れん
だそうです。                                                                             次は十輪寺の事について調べました。
十輪寺は地蔵院と呼ばれ、寛永の始には、明石城主の後室が寺格を上げました。

しかし、昭和20年7月7日の明石空襲の戦火は、この寺のすべてを焼き尽くしました。
そこから17年後、つまり1962年に再建されました。

話は変わり、明治6年には、明治の学生により、学校が開かれました。
十輪寺は密蔵院の末寺で他に7つの末寺があります。密蔵院の8つの末寺

       1)奥乃坊2)東禅坊3)吉祥坊4)宝蔵寺5)神応寺

       6)坂上寺7)福蔵寺・・・がある

この8つの寺は全て明治の学制で学校として機能した。
このうち十輪寺は王子小学校の近辺にあります。

                〜密蔵院についてわかったこと〜

         

    感想

 身近にある巨大な地蔵や、さりげなく建てられている墓にたくさんの歴史が

積み重ねられているとは思いも寄らなかったです。 なぜ地蔵に油を掛けるのか、

昔の密蔵院は、栄華を極めたというのが、どれぐらい広かったのか、

次回機会があれば調べてみたいものです。(Ryo、I)(Yu、T)